身体美学 概論Fhysical Aesthetics introduction

 身体編2001-2003年

コンプレックス1

人は姿形でしか、自分および他者を認識できない。
社会的な同一性の基準も、基本は容姿以外の何者でもない。
異形な形態、毛色や肌の色の違いは間違いなく異質と見られる。
多数派から阻害されることが多い。実態はかなり非情である。

さりとて同質と認められても、安泰ではない。
基準値にも幅があるので、優劣のランクがつけられるからだ。
高い者は明らかに優遇され、低い者は差別される。

低いだけでしばしば人格を否定され、嘲笑を受ける。
精神論が好きな日本人だが、現実は容姿が基準となっている。
つまり実態は現実主義の欧米と変わらず、ただ基準値が違うだけだ。

よい容姿への憧れは自然な欲求であり、あって当たり前。
しかし容姿を構築する材料は多いので、万事水準の高い人は稀。
大半の人は何らかの不満を抱え、劣等感の元になることが多い。

劣等感は元を消せない限り、一生つきまとうことになる。
そのつきあい方にその人の知性、人格が表れる。

性は自信の源?

顔は標語にもあるように人格の看板であり、証明書でもある。
人格の目安にもなれば、容姿の基準ともなる。
美男美女とはもっぱら美貌を指すのだ。

では美貌はそれだけで、魅力となりうるのか。
当サイトをよく読まれた人はお分かりであろう。
まず表情学的になりえないことは、これまで書いてきたとおり。

単に造形美として見ても、肉体とのバランスが不可欠だ。
体が基準を満たして初めて一つの美が完成、魅力となりうる。
基準から外れると、なまじの美貌は返って空しさを誘うことになる。
(もちろん両方悪いよりは、顔だけでもいいに越したことはないが。)

基準とはまず第一に、健全な発達発育をしているかどうか。
それは冒頭で記した社会的同一性の基準ともなる。
基本はサイズと形(人体の基本型)だが、基本を満たすだけでは不十分だ。
八頭身のような美的な発達をしていたとしても、まだ十分ではない。

とどめの条件は性徴だ。
男女共に肉体美は性徴と不可分。男性美も女性美もその賜物。
異性にとっては魅力の象徴でもあり、互いにそれを期待する。

性は自我の基盤であるがゆえに、自尊心の拠り所でもある。
性を具現化する肉体は、自尊心の拠り所にもなる。
その発現が弱いと、美貌に恵まれたとしても自分に自信を持てない。
劣等感に悩む美男美女も多いに違いない。

例えば女性の胸は、目立ちやすいシンボルなので分かりやすい。
小さい胸の悩みは深刻なほど、男たちの嘲笑を誘う。

なまじ美貌で注目されたりすると、よけい劣等感が深まるかも知れない。
大きすぎる悩みというのもあるが、こちらは劣等感を生まない点が違う。
タモリが番組で女性ゲストの胸を、「先天性胸部平たん症」と表現していた。
それが言えるということは、人格まで否定することにはならないからか。

しかし人格を認められても、性を認められない限り自信は持てない。
「女としての魅力はないが性格はいい。」これは誉め言葉になるか?。
本人は傷つくだけであろう。
男なら「いい人だが男としては頼りない。」と言われるのと同じだ。

「お尻小さいね」「お尻大きいね」
セクハラの事例集のようなセリフだが、仮に言われた場合どちらがまし?。
スリム指向の現代なら前者の方が誉め言葉に聞こえそうだ。
でも実際は後者の方が女として自信を持てるだろう。女の証しなのだから。

男も性徴の形が違うだけで基本は同じだ。
例えばどんなに美男子であっても、身長が低ければ劣等感から免れない。
女は男の徴として高い身長を求めるだけに。

さりとて高いだけでも駄目。貧弱で体力なければ男として認められない。
か細い腕、薄い胸板、軟弱なデブなどは女たちの嘲笑の的になる。
男たちが女の平たん症をあざけるように。

結論としては人格を表す顔を、性を現す肉体が補完する。
両方なければ魅力は成立しない。
顔だけ見てひかれ、体形を見て冷めるということは十分ありうる。
逆にいくら肉体美でも、顔を好きになれないと恋は生まれない。

劣等感は人を磨く?

ミスコンは顔と体の造形に、等級をつける品評会だ。
審査対象はまさに上記の構造原理そのもの。
野菜や家畜の品評会と、基本はなんら変わらない。
知性も審査対象というのは、体のいい建て前であろう。

ところが昨今、世界的にミスコンが衰退している。
人々がそれほど注目しなくなった。
造形美に価値を見出すことに、限界が見えているのではないか。

顔も肉体も美しければ美として完ぺきだし、自信も持てる。
誰もが価値を認めるだろう。だがそれでも絶対的なものではないようだ。

完ぺきな美貌と肉体を誇ったリズ・テーラーは、自信に満ちていた。
オードリー・へプバーンは体や容貌に劣等感を持っていた。
しかしリズが色あせるほどの煌めきを放った。

では絶対的なものとは何か?。やはり基盤はあくまで人格だ。
目に見える魅力という点では、人格を表す表情美が主役だ。
美貌や肉体美はそれを補完するものであって、主役ではない。

わき役はわき役であってこそ輝く。主役にしたら逆に色あせるだろう。
美貌や肉体美に依存すること自体、知的な感性とは言えない。
リズは破格のギャラでヌードシーンも披露した。
オードリーにはありえない話だ。
だが人々の心に残ったのはリズのヌードではなく、オードリーの表情美だ。

日本人の目にはオードリーの顔や体形は、理想的に見えるかも知れない。
彼女が劣等感に悩まされたというなら、「私は死ねってこと?。」
そんな声が聞こえてきそうだが、彼女は肉体を前面に出したことがない。

周りが豊満なだけに、生涯量感不足の体に自信を持てなかった。
しかし憧れの体に遠くても、おろそかにした訳ではない。
元バレリーナだけに鍛えられていた。

主役でないからといって、顔や体をおろそかにしてはいけないのだ。
いいわき役がいてこそ主役が引き立つ。
弱点は消えないかもしれないが、改善する努力は無駄にならない。

努力すること自体に意味があるともいえる。
劣等感はそのエネルギーとなるべきであろう。
オードリーの輝きの裏には、そういう葛藤があったことは間違いない。